2020年1月5日

原聖『ケルトの水脈』講談社学術文庫、2016年

「興亡の世界史」シリーズ。オスマン史のものと併せて去年購入したが長いこと積んでいたもの。先日の研究会で「ケルトなるものは存在しないのだから、学位論文では使うな」と言われたという話を受けて思い出し、解凍。考古学的資料の示すガリア・ブリタニア・ヒベルニアそれぞれの文化の相互交流の可能性と独自性、また言語史的な考察から示されるこれらの地域の民族像、そして同時代史料が自称ないし他称として用いる「ケルト」の範囲が全く一定でないという状態。高校世界史で習うような、先史時代にフランスのあたりにいたケルト民族という人たちがゲルマン人に駆逐された、といった把握の仕方には大変問題があるうえ、確かに迂闊には「ケルト人」なると名称も用いられない。ただしこの本、考古学史料の扱いなど、本当にそれでいいのか?みたいな点も散見される。いまだに学界で合意の見られていないテーマでもあるので、少し留保を要するか。

 

ブッツァーティ(作)脇功(訳)『タタール人の砂漠』岩波文庫、2013年

1940年、ブッツァーティ34歳の作。脇先生のあとがきによれば、この作家はネオレアリズモの潮流の中では現実不参加の作家として批判の対象にもなったそうだが、僕の大好きな「神を見た犬」の飄々とした現実描写の妙、というよりは遁走していく季節のもどかしさや老いの悲しみなどが前景化しているように思われる。ただ25歳でまさに人生の時間が遁走し始めている読者の実感が投影されたのかもしれない。あとで読み直すと面白いかもしれない。何れにせよ砂漠という場所に託される人々の幻影と、幕切れの味わいは見事。

 

内田樹『寝ながら学べる構造主義文藝春秋、2001年

やっぱり内田の巧みなレトリックには、頭の中の警報機が鳴りまくってしまうのだが、新書の分量の限界の中でよく練られた良書。ソシュール・バルト・レヴィ=ストロースには馴染みがあったが、それとラカンを接続する思想的俯瞰ができていなかったので、その点非常に有意義だった。またラカンの項で、初めにラカンの文章の難解さを徹底的にくさしておいて、論が進むに従って読者がラカンの引用がある程度自分で読める(気がする)ようになるというのは、教養書としてよく仕組まれているなあ、と感心。